臭い

臭いっていうのは人に伝えづらいものである。色ならば色自体に名前があるから、名を言えば伝わるし、インターネットで検索して相手に見せても良い。しかし臭いではそうはいかない。相手に伝えようとするならば、「◯◯みたいな臭い」と相手が嗅いだことのあるだろう臭いに例えてやらねばならない。つまり相手の知らない、似ている臭いすらないような臭いは伝える手段がないのだ。

    つまり私が今苦しめられている臭いについては世界中誰にも共感してもらえないという事だ。

    いつからだろうか。私は常にある臭いを嗅ぎとることができるようになった。それは特定の人から発せられているものであるようだ。今までその匂いがした人は私の祖父と看護学校に通う女友達、ツーリング仲間が2人だ。例外かもしれないが愛犬のちょこも最近彼らと同じ匂いがする。4人の共通点といえば私くらいのもので、みんなバラバラな知人だった。

    私の感じ取れる臭いの正体は何なのか。疑問に思って友達や本人にも聞いてみた。もちろん、彼らが臭いと言っていると思われないようにオブラートに包んでだ。「何か臭いのするものを付けていないかい?」「変な臭いしない?」聞いてみても誰も感じていないようだった。 

    つまり私しか嗅ぎとれない何かの匂いが彼らにはあるのだ。

    そして問題は今朝起こった。臭いのだ。部屋で臭うという事は私自身が臭いのかと思ったがそうではない。

   部屋から出て廊下からリビング、朝支度を済ませて外に出てもいつものあの匂いが漂っているのだ。とっておきは満員電車の中だった。匂いが強烈過ぎて私は堪らず大学に向かう途中のいつもは降りないだろう駅で降りた。

    耐えられない臭いに鼻をつまみながら階段を登り反対のホームに向かう。すると1人の中年女性が通り過ぎた。あの人は特に強烈な臭いなんだろうな。そんなことを考え、怖いもの見たさだったのか鼻をつまんでいた手を離し、恐る恐る鼻を鳴らした。

    そこには何の匂いもしなかった。朝からずっと充満していた悪い空気が吹き飛んだのかいつも通り、いや、今日に限ってはいつも以上に清涼と感じられた。

    朝からずっと浅い呼吸を心がけていた私はゆっくりと大きく深呼吸した。当たり前にしていたことがこんなにも気持ちの良いことだったとは。私の前を通り過ぎてくれた女性に心の中で感謝しながら、家路に向かう反対ホームに向かう。

    しかしながら空気が澄んでいたのはあの女性の周りだけだったのかやはり匂いがする。今朝よりは弱い。しかし確実に漂ってくる臭いは駅周りの飲食店の匂いでも、錆びた鉄の匂いでもない。あの匂いだ。 

    私は今日1日女性の近くにいることにした。ストーカーのようで申し訳ないし、あまり美人でもないから楽しくもないが、あの臭いを嗅ぐのはごめんだった。

   私は街を離れる。走る電車は山を登り、避暑地として栄える街まで辿り着く。オフシーズンの街は閑散としていたが人が少なく、臭いは全くしなかった。宿も安かったので今日はここで一日休むことにする。休憩したら川や森林を散策でもしてみよう。優雅な休日を過ごした翌日の朝、私は自分の住んでいた街が地震により崩壊したことを知った。